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シーサー/水牛/その他の動物たち
・歴史・島の歴史
10C前後
12C末〜
13C頃
14C頃
竹富島への移住がはじまったと考えられる。
東新里村遺跡。
他金殿を首長とする集団が新里村を建てたと伝わるのはその頃か。
西新里村遺跡。
1390
1429
1477
1500
宮古・八重山はじめて中山王に入貢する(球陽)。
中山の尚巴志、南山を討って琉球王国を統一する(球陽)。
朝鮮国斉州島の漁民が与那国島に漂着する(朝鮮国李朝実録)。
琉球王国・宮古の連合軍が八重山を攻め、オヤケアカハチを攻略する(球陽)。
琉球王国軍の総大将・大里親方が竹富島の西塘(にしとう)少年を首里に連れてゆく(球陽・琉球国由来記)。
1524
その頃、西塘、琉球王府より竹富大首里大屋子(頭職)を授けられ、竹富島に蔵元(行政庁)を置く(球陽)。その頃、西塘、首里の園比屋武御嶽の神を竹富島に勧請し、国仲御嶽を建てる(琉球国由来記)。
1543
1550
1609
その頃、西塘、蔵元を竹富島から石垣島へ移す(西塘傳)。
その頃、西塘、石垣島で逝去と伝わる(西塘傳)。
薩摩藩の侵攻。与論島以北は琉球から分離され薩摩藩の直轄地とし、沖縄本島以南を薩摩藩支配下の琉球王国とする(球陽)。
1628
行政区を宮良・大浜・石垣の3つの間切に分けて、頭職を置く。竹富島は石垣間切に属する(八重山年来記)。しかし、『八重山年来記』では、石垣間切の1村として「たけとミ村」と記している。玻座間村・仲筋村は記載されず。
1632
八重山に在番を置く。琉球王府の役人が在番として駐在する。補佐役の在番筆者2名も駐在。
1641
八重山に大和在番を置く。薩摩藩の役人が大和在番として駐在する。初代大和在番は、竹内備前。
1651 「竹富村 頭数弐百九人」(人口209人)と記される(八重山年来記)。
「はざま・中筋・はれはか」の3村の石高が52石余と記される(宮古八重山両島絵図帳)。しかし、『八重山年来記』は竹富村1村のみを記している。当時、それらの3村が行政区の村として存在したかどうかは疑問。
1658
「竹富与人」(竹富島に駐在する統治責任者)が配置される。与人の現地駐在は八重山で初めてのこと(球陽)。
1686
風水見のため、久米村城間親雲上八重山に来島。村構えを見立てる。
1694
1705「竹富与人」を「玻座真与人」と改める(八重山年来記)。
『八重山嶋由来記』編纂。その記録は、1713年編纂の『琉球国由来記』に収められる。同書には竹富島の「ムーヤマ(六御嶽)の由来」「国仲御嶽創建の由来」「造船の由来」が記されている。
1711
竹富村と新城村から、西表島の仲間村へ移住させた(八重山年来記)。
1714
竹富島の「那辺」という女性が、一度に3人の男の子を産んだ(球陽)。
1729
1732「竹富目差」を「玻座真目差」と改める(八重山年来記)。
竹富村の「おたな」を案内者として、難波した久米島在番の親泊親雲上を石垣から上国させた(八重山年来記)。
1734
竹富島から石垣島崎枝村付近に男女100人(男女74人)を移住させ、屋良部村を建てる(八重山年来記)。
1737
竹富村の人口男女1072人。内、玻座真村男女713人、仲筋村男女358人(参遣状)。
1738 百姓が貫家を造ることを禁止し、掘立家にするよう命じる(参遣状)。
竹富島の人口は1080人である。人口過剰なので、石垣島平久保村から一里余の安良に300人移住させて欲しいとの願いが、頭職及び他の役人から座喜味親方・湊川親雲上に出される(参遣状)。
1741
1750
竹富村に杣山筆者2名を配置する(八重山年来記)。
竹富村の人口1014人の内、200人は屋次良(安良)へ移住させる(参遣状)。
1753 竹富村は土地が狭いので、石垣島の冨埼へ海を越えて渡り、仮屋を造って耕作していると記す(参遣状)。
1771
八重山に大津波来襲。竹富島から公務で石垣島に渡った27人が溺死した。竹富村にいた1129人の内より、男247人・女276人 の合計523人を石垣島の冨埼村に移住させたので、島の人口は男305人・女301人の合計606人である。竹富島の村内や御嶽・井戸に津波の被害はないが、六反帆舟一艘と磯辺の山の東南方が引き崩された。畠の被害は、144町5反3畝10歩(大波之時各村之形行書)。
1785
竹富村から移住させた冨埼村は土地が痩せてよくないので、盛山に再移転させる(参遣状・八重山年来記)。
1821
1824
世持職95歳の大山筑登之親雲上に勢頭座敷位を授ける(球陽)。
大山筑登之親雲上の母「加伊志」の99歳の長命を褒嘉する(球陽)。
1826
1841
1848
1852
1857
1859
1865
大山仁屋に筑登之座敷位を賞賜する(球陽)。
与那国仁屋に筑登之座敷位を賞賜する(球陽)。
蒲戸請盛の長命を褒嘉して筑登之座敷位を賞賜する(球陽)。
大山筑登之に黄冠を賞賜する(球陽)。
福古利大山を褒嘉して赤冠を賞賜する(球陽)。
大山仁屋に筑登之座敷位を賞賜する(球陽)。
場儀納屋大家(バギナヤーフイヤ)建築、竹富島で現存最古の茅葺民家。
1868
1871
1879
1880
1889
1892
1896
明治維新。
廃藩置県。琉球は鹿児島県の管轄となる。
琉球処分。琉球王国廃止、沖縄県となる。
蔵元内に八重山島役所を設置する。
家屋制限令撤廃。
大川尋常小学校竹富分教場設立。
竹富分校第一回卒業生10名を社会へ、内4人が八重山島高等小学校に入学。
1897
1900
蔵元・村番所廃止、八重山間切となる。
内盛真津、八重山島高等小学校を卒業して代用教員、竹富出身者で初めての教員。
1901
1902
1903竹富島の土地整理事業開始。上間保久利高等小学校卒業。
上間保久利代用教員となり、矯風会を組織し風俗改良運動を開始。
人頭税廃止。徴兵令適用される。竹富分校で最初の女子学生が卒業。東金城家フイヤ(母屋)建築。(竹富島で現存最古の瓦葺き民家)。
1908
島嶼町村制施行、八重山村となる(初代八重山村村長上江洲由恭)。
1913
1914
與那國善三、沖縄師範学校入学(同大正7年卒業)。
八重山村は、石垣・大浜・竹富・与那国に分村され、竹富島に竹富村役場が設置される。
1917
1919
1920
1927
1928
1933
竹富同志会設立。高等科設置を決議する。
竹富尋常小学校が竹富尋常高等小学校となる。
上間廣起、竹富村初の民選村長に選出される。
敬老会を始める。
美崎の桟橋(ガンギー)を、竿原(ショール)に移す。
竿原(ショール)の桟橋を、大枡(ホーシ)に移したのが現竹富東港。
1938
1940
1944
1945
1948
1949
竹富村役場を石垣島に移転。
竹富同志会を竹富部落会に改める。
日本軍・大石隊駐留。
第二次世界大戦終結、終戦。
竹富町に昇格。
竹富部落会が祭事部を設置し、祭事行事の整理を行う。竹富中学校設立。
1950
アメリカ軍政府布令により、沖縄本島・宮古・八重山・奄美大島に「群島政府」を創設する。
1952 アメリカ政府の出先機関の「アメリカ民生府」のもとに「琉球政府」を創設する。群島政府の廃止。
1953
1963
1969
1971
1972
1975
赤山丘を公園として整備する、「なごみの塔」建設。
竹富部落会を竹富公民館に改める。
上勢頭亨、私設・喜宝院蒐集館設立。
琉球米国軍高等弁務官資金の援助を受けて竹富公民館建設。
本土復帰、再び沖縄県となる。
観光資源保護財団・(財)日本ナショナルトラストによる町並みの調査。
1976
1977
種子取祭芸能の国立劇場公演。
種子取祭、国より重要無形民俗文化財に指定される。
1987
竹富島憲章制定。竹富島の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
1989
旧通商産業省から伝統工芸品として「八重山ミンサー」が指定される。
1996
2000
2001
全国竹富島文化協会設立。
まちなみ館竣工。
竹富公民館、地縁団体としての法人格を取得する。西塘首里上り500年記念行事を行う。
2003
2004港湾施設「てーどぅんかりゆし館」竣工、環状線開通。
環境省ビジターセンター「竹富島ゆがふ館」竣工。
赤字:島にとっての重要な出来事
青字:時代の大きな流れ
緑字:記されていた資料名