October 15, 2011

東パイザーシ御嶽

竹富島に数多く点在する御嶽(オン)。
沖縄本島では“ウタキ”や“オタケ”と呼びます。
現在、竹富島には28あるとされ、
竹富島の精神世界の中心に位置する神聖な場所です。

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今回は、
あいのた村(東集落)を縦断する桟橋通りに面する御嶽、
東パイザーシ御嶽(アガリパイザーシオン)をご紹介します。
東パイザーシ御嶽には、
シンミンガナシという
島つくりの神が最初に降り立ったといわれる
竹富島の島づくりの伝承に取り上げられる由緒ある御嶽です。

以前、八山(ヤーヤマ)のひとつで
竹富島の祭事行事で必ず参拝に訪れる
清明御嶽(マイヌオン)をご紹介しましたが、
マイヌオンとは“前のオン”とも解釈されており、
東パイザーシ御嶽の前にある御嶽との説もあります。

現在、東パイザーシ御嶽は、
前浜屋で管理をされていますが、
これは、
拝み始めが前浜屋の人であることに由来しています。

(ta)

霊示を受けた前浜玉仁の話

竹富451番地、
前浜重雄氏の祖先に玉仁(タマニ)と言う神霊を受けた人がいた。
この玉仁によって、
島の古いお嶽や祭事が開かれたと言う、有名な神人であった。
玉仁は、常に天の神を拝むと言うことから、
家の本尊として天照皇大神を信仰していた。
童名は玉仁であったが、霊示によって、
黄金志良嘉(クガニシラカ)と呼ばれるようになった。

明治3年のこと、
仲筋1059番地内小底加美ほか、島の役人数名の人々が、
公務のために沖縄本島に上国したが、帰国の際漂流し、
支那の国に着いて、そこで生活するようになった。
その情況を、竹富の志良嘉は霊示によって知り、
そのことを村の役人の妻子たちに報告して安心させた。
そして、
支那の国にいる一行が一日も早く無事に帰国できるように、
志良嘉は、彼らの健康と帰国の航海安全を祈願した。
3年後の10月12日をもって、
内小底加美一行が無事、竹富島に帰り、
志良嘉の祈願によって帰島できたとのことを知って一行は感謝し、
ここに内小底加美は、
支那の国王、
ドウヤーから戴いた護身用の「刀一振、麾一組、五色旗一流」
を帰国記念として、黄金志良嘉に贈った。

この品が、前浜家の家宝としてのこされている。

尚泰王33年(明治12年)の9月、
前浜玉仁、神名黄金志良嘉は、行年52歳でこの世を去った。
志良嘉が生前、「神口段ぬ法」といって唱えていたのが、
次のように伝えられている。

「段ぬ法(だんぬほう神口)」

1. いきゆる花に みどぅり花いきてぃ 春みどぅり
   花いきてぃ

2. 上天じょう 十二ヶみぐてぃ ひとぅ人間うまり
   うたびみそーたる 天徳あてぃどぅ

3. 楽ぬうどぅく 心むてぃむたば 誠ぬ心むてぃ
   りんぬ花に咲き ちゅらさ あてぃ

4. 人間てぃらむーのうー いとぅにんかゆてぃ
   心喜ぶる くぬ望やてぃからや

5. じみぬちち んでゆる しらわい しらわい
   思かななてぃ なてぃかななてぃ すみ叶てぃ

6. いんてぃる事や さる山かんきんじ 金かきてぃ
   ある金ぬ んじとぅやい

7. 百世ぬ子返し 百とぅ思いば 幾世とぅ度までぃん

【対 訳】

1. 活ける花に 緑の花を活けて 春の緑の 花を活けて

2. 上天井の 十二ヶ所を巡って 人、人間に生まれ
   なさった 天の徳があって(ぞ)

3. 楽の男が 心を持ち持ったなら 誠の心をもって
   蓮の花に咲き 美しく あって

4. 人間というものは 糸に通って 心喜ぶ 
   この望みであるから

5. じみの土に 出る しらわい しらわいと
   思いがかない そしてかなって 積み叶って

6. 縁ということは サル山にかけ 金にかけて
   ある金の 出てから

7. 百の世の子供を返し 百と思えば 幾世十度までも

出典 『竹富島誌 ―民話・民俗編― 』上勢頭亨著 法政大学出版局発行

※ 御嶽は神聖な場所です。
   石垣の中からのお立ち入りはご遠慮ください。

投稿者 takidun : October 15, 2011 08:00 AM