January 21, 2010

安里屋ユンタ

八重山を代表する人物、星克の作詞と宮良長包の編曲により、
「新安里屋ユンタ」として一世を風靡した「安里屋ユンタ」ですが、

竹富島で伝えられている「安里屋ユンタ」と、
石垣島で謡われている「安里屋ユンタ」とは、

うたの内容が微妙に異なります。

 クヤマは1722年に竹富島で生まれ、1799年に没します。
竹富島では旧暦正月15日にあたる週の日曜日に、
安里家一門とその親戚縁者が集い、
クヤマを祀る「クヤマ大祭」が今なお執り行われています。

 クヤマが生きた時代、八重山では人頭税制度が敷かれ、
農民は薩摩藩の献上物と首里王府への貢納の二重課税に苦しんでいました。
当時の特権階級は士族と呼ばれ、八重山の各島に派遣されており、穀物や織物
など貢納物を厳しくチェックしていました。
 派遣された役人の特権は、税を納める必要がないことや、現地で世話をする女性、
いわゆる賄い女と呼ばれる女性をあてがうことができました。
 役人には、与人(ゆんちゅ)と目差主(みざししゅ)などの階級があり、
与人はその地域の責任者として、税を完納させるよう目を光らせていました。

 竹富島で謡われている安里屋ユンタでは、
目差主が絶世の美女クヤマに惚れこみ、自分の賄い女にしようと働きかけますが、
クヤマは 「私は与人の賄い女になります。目差主はいやです。」
と目差主に肘鉄を喰らわせます。
振られた目差主は、クヤマの腹いせに他の美女を探し求め、仲筋村のイスケマに
再度アプローチし思いを遂げる。と言ったストーリーとなっています。

実際に、クヤマは16歳のときに与人の賄い女になり、
与人から寵愛を受け竹富島の一等地を与えられたとされている一方、
大変働き者で、現在の安里屋の石垣は弟の筑登之と働き勝負をしながら
積みあげたともいわれています。
与人が島を去った後一生独身で暮したため、子どもはなく、
島の貧しい家の子ども達の面倒を見た聖女として今なお伝えられています。


 「安里屋ユンタ」が謡いつがれてきた訳は、
自分たちを虐げる役人がクヤマに肘鉄を喰らわせれる滑稽さを笑い、
苦しい労働の励みにしていたのではないでしょうか。

 一方、石垣島での「安里屋ユンタ」は、
クヤマが「役人はいやです。私は島の男性に嫁ぎます。」
といって目差主のアプローチを断るストーリーとなっています。

 農民の島である竹富島と、番所(役場)が置かれ、
士族が活動していた石垣島では「安里屋ゆんた」の捉え方が異なっているのでしょう。

asato.JPG
安里クヤマの生家 安里屋

現在、竹富島では「安里屋ユンタ」と、節歌化されて舞踊曲として
種子取祭に必ず奉納される「安里屋節」が謡われていますが、
いずれも竹富島で伝承されている歌詞を謡っており、タイトルも
“あさとや”と濁音を付けずに呼称しています。

 竹富島の水牛車観光のガイドさんは、「新安里屋ユンタ」を唄い、
クヤマのことを皆さまにご紹介してくれますが、
実は、こうした背景があることを頭の奥底に潜めながら、
ガイドさんの朗らかで軽快な「新安里屋ユンタ」に耳を傾けていただけると、
ディープな竹富島の世界に触れることができると思います。

kuyama.JPG
安里屋の位牌 
クヤマの戒名は、

「寿岳宗仙信女」とあり、

嘉慶四年己未四月十六日死 寿七十八歳と記されています。


(ta)

投稿者 takidun : January 21, 2010 12:13 PM