昨日から本日にかけて、竹富島の偉人
西塘(にしとう)大主の遺徳をしのぶ神事「西塘ばんはじり」
が行われました。
西塘大主は、15世紀末から16世紀にかけて竹富島で生まれた
実在の人物ですが、生没年や詳しい業績などは謎とされています。
事実として判明しているのは、
1.竹富島から沖縄本島に連行され(1500年)、首里王府の高官に仕えたこと
2.沖縄本島の園比屋武御嶽石門を建立したこと(1519年)
3.琉球王から信頼を得て、竹富大首里大屋子の役職をもって
竹富島に戻られ、カイジに蔵元(役所)を設けたこと。
4.やがて交通面において不便だということで、蔵元を石垣島に移したこと。
5.竹富島の代表的な古謡「しきた盆」を詠まれたこと。
6.石垣島でご逝去された西塘大主は、部下によって亡骸を竹富島へ
移され、西塘大主の屋敷跡に葬られ、その場所に西塘御嶽が
造られたと伝えられている。
西塘大主が今なお竹富島において絶対的な崇拝を受けているのは、
山も川もなく、土地も痩せた竹富島に『うつぐみ』の精神を培わせ、
島人にテードゥンヒトゥとしての誇りを授けてくれたことです。
與那国善三先生による『西塘傳』には、西塘ばんはじりについて、
次のように述べられています。
西塘祭の始まり
竹富島では西塘の子孫が絶えたので、西塘を祭る方がなく、
部落で時々お祭を施行していた。処が今より百十一年前、
弘化三年(1846)竹富島には農作物の豊穣がなく、珍しい害虫
が発生して、島の農作物は勿論、雑草に到るまで喰い尽し甚だし
い事には民家まで這入って来た。島民は何事かの不吉な前兆で
ないかと懸念をしていた所へ、大浜津良(1)という老人が神懸り
して、高下駄をはき、黒木の杖をついて夜明頃各部落を!!廻り
親見世話人玻座間与人、部落の責任者大山親雲上、
両人よく聞け此の津良は西塘使いであるぞ、
「両人は島民の苦しい生活を見ているか」
「島の枯れ行く姿を見ているか」
「害虫が発生している原因を知っているか」
「島の役人達、村の責任者たちは、島の五穀豊穣、害虫駆除の
祈願祭を近日中に施行せよ」
神々の御照覧あって島民は救われるでしょう。そこで、玻座間与人
と大山親雲上は早速、島民を集め協議の結果、毎年6月西塘祭を
挙行することに決し牛一頭を屠つて盛大に行う事になった。
その後お神の御加護により、農作物は稔り、民生活安定し幸福を
招いている。
大浜津良は竹富501番地大浜屋の祖先に当る。
毎年西塘祭の時には部落よりお供物をして感謝の意を表している。
西塘祭は戦前までは牛一頭を屠つていたが、戦後、家畜の数が減少
したので、今では石垣市場より入用分だけ購入して行事を済ませている。(1)
(與那国善三著 『西塘傳』 全国竹富島文化協会発行)
(1) 現在では、菓子類を供物とし、簡素化されている。
(ta)
投稿者 takidun : July 12, 2008 11:53 AM