July 31, 2011

化粧なおし

集落を散策すると、
数多くの石碑・石像を見ることができます。
これらの多くが
大正〜昭和期にかけて建立されたもので、
竹富島を支えた先人の業績や、
当時の生活を伝える貴重な記録として、
竹富島の景観に染み込んでいます。

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しかし、
亜熱帯地方特有の湿気を多く含んだ気候は、
石碑を保存する良好な環境とは決して言えません。
そのため、
語句の色や刻が剥げたり摩耗したりと、
文字が判別できなくなった石碑も少なくありません。

日露戦争に従軍した4名の無事の帰還と、
戦勝を祝して掘られた井戸、
ガイセンカー
【 凱旋井戸・キニンカーともいう。1906(明治39)年1月18日落成 】
の石碑に刻まれた文字は判読できなくなっています。

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ガイセンカーの石碑 正面 【東集落】

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ガイセンカーの石碑 裏面

しかし、
刻まれた文字にふたたび色が注がれ、
改めて言葉に命が吹き込まれた石碑もあります。

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西塘御嶽の石碑 (6月9日)

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西塘御嶽の石碑 (7月31日)

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西塘御嶽の石碑裏面 (7月31日)

1957(昭和32)年に竹富壮年会によって建立された
竹富島最大の偉人、西塘大主を讃えるこの石碑は、
竹富島にとって重要な石碑のひとつ。

島人の想いはみな同じなのだ ・・・
と感慨深くなるほど、
心ある有志が言葉を甦られせてくれました。

先人に対する敬虔な心があるからこそ、
竹富島は美しいのです。

投稿者 takidun : 02:08 PM

アーカイブ上映会

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昨晩、ゆがふ館では、

ゆがふ館に所蔵されている映像を、
島民ならびに宿泊客ののみなさまにご覧いただく、

「竹富島ゆがふ館アーカイブ上映会」

を開催いたしました。

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昨晩上映したのは、
沖縄の伝統工芸品を紹介する映像。
琉球漆器や壺屋焼など全国に知られる
沖縄の伝統工芸品とともに、

「竹富島のまちなみ」、
「石巖當やシーサーなどの魔除け」、
そして、
「ミンサー織」が紹介されました。

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上映会には30名の方が足を運び、
沖縄の「用の美」を楽しんでいました。

ご来館いただいたみなさま、
シカイト ミーハイユー

投稿者 takidun : 12:10 PM

July 26, 2011

アーカイブ上映会のお知らせ

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竹富島ゆがふ館では、
“沖縄の手わざ”
工芸品にまつわる
アーカイブ上映会を開催いたします!

竹富島にご宿泊予定のみなさま、
多くのご来館をお待ちしております。

日  付 7月30日(土)
時  間 よる:8時30分〜9時30分
会  場 竹富島ゆがふ館 テードゥンシアター
入場料 無 料

(ta)

投稿者 takidun : 02:26 PM

July 25, 2011

なた豆(刃豆)

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なた豆です。
たんなる豆ではございません。
この豆なんと・・・30〜50造棒長します!
ただいま25臓
確実に毎日伸びています!

投稿者 takidun : 09:17 AM

July 21, 2011

ムチャネとイイヤチにみる島人のこころ

竹富島の四大祭のひとつ、
プイ(豊年祭)も無事に終わり、
島では日常の生活が戻っています。

こうしたなか、
プイの余韻に浸るかのように、
プイで食される食べ物のひとつ、
もち米、もち粟、あずきを蒸して練りこんだモチに似た食べ物、
「ムチャネ」の
“形”について触れてみたいと思います。

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2008年プイのムチャネ

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プイやナーキヨイ(長月祝い)では、
氏子たちが
六山の神前やトゥヌイムトゥ(御嶽の統括者)の床の間などに
シュナイ(長命草やパパイヤなどの味噌和え)
を供物としてを差し出しますが、
各家庭ではムチャネをつくります。
ムチャネは、
専ら各家のザー(床の間)やピーヌカン(火の神)、
ジージョン(土地の神)に捧げたり、氏子同士で振る舞ったりします。

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2009年ナーキヨイ アサイヤのジージョンにて

一方、種子取祭でつくられるイイヤチは、
素材もつくり方もムチャネとまったく一緒です。
しかし、このふたつは

呼び名が異なるばかりか、
* ムチャネ (語源はモチアワの飯と云われる)
* イイヤチ (飯初と漢字では表記する。初物のもち米ともち粟を用いる)

形や包むものすら異なります。
* ムチャネ 円盤状に丸め、蒸した際用いたイトバショウの葉で包む
* イイヤチ イイヤチダーという型枠に入れて形を整え、タビッキャ(ハマオモト)の葉で包む。

この違いは、
イイヤチカミの儀式を通じて、
イイヤチが種子取祭の儀式に大きく係わっていることで理解できます。
だからといって、
ムチャネが供物としての要素を持ち合わせていない
と考えるのは早計です。

たとえば、
以前、由布島に耕作に通っていた人々が、
竹富島で待つ子どもたちへ届けたお土産は、
「コンテー」と呼ばれる縦の楕円の形をしたおにぎり。
ユニークなその形は武骨ですが、
大きく見せようと工夫して子どもたちを喜ばせようとする
父親の気持ちが込められていることが、
コンテーについて語るお年寄りの言葉から
感じることができます。

ムチャネは、
普段私たちが握り易いと感じる「団子」ではなく、
より扁平な円盤状をしています。
ここに、
ムチャネの形からプイを祝う島民のこころが
垣間見ることができます。

何もない時代、
限られた素材のなかで、供物の形状を変えることで、
神々へ畏敬の念を示す心遣い。
さり気ないところに、
竹富島の人々の細やかなこころと
深い歴史を感じることができます。

参考:『南島の畑作文化』 賀納章雄 著 海風社発行 2007年

投稿者 takidun : 11:49 AM

July 18, 2011

親心

豊年祭前日の7月15日。
翌日のオンプイの準備を終え一息つこうと思った矢先、
怪我をして飛べないフクロウがいるとの一報が入り、
急いで
竹富町高齢者コミュニティーセンターへと向かいました。

すると、
階段の手すりにちょこんと座る
リュウキュウアオバズクの幼鳥。

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巣から落下し、右足を骨折した様子です。
まだ飛ぶこともままならないようで、
小さな羽根を一生懸命羽ばたかせながら、
手すりまで上ったのでしょう。

保護するために近寄ろうとすると、
2羽の親鳥が頭上から威嚇してきました。

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親鳥の存在は、保護の不要を意味します。
念のため、
環境省石垣自然保護官事務所に確認を取ったのち、
その場を後にしました。

翌日、施設を利用するお年寄りたちから話を聞くと、
昼過ぎからアオバズクの幼鳥は手すりに避難していたそうですが、
予想していた通り、
ネコやカラスからの襲撃を受けていたそうです。
その襲撃を撃退し続けた2羽の親鳥の献身的なこころ。


豊年祭をおえた昨夕、
再びコミュニティセンターへ足を運びましたが、
幼鳥が襲われた形跡はありませんでした。
恐らく、
無事に安全な場所へ避難できたのでしょう。

それにしても、
竹富島の生態系ピラミッドの頂点に立つ
ネコとカラスの存在が最近気になります。

島内では、
飼いネコの殆どは飼い主によって
避妊されていますが、
野性化したイエネコが徐々に増えています。
これが、
竹富島の生態系を乱す要因にならないことを
願っています。


(ta)


投稿者 takidun : 09:58 AM

July 17, 2011

プイ (豊年祭)

西塘大主の感謝祭である
「西塘ばんはじり」の10日後にあたる
旧暦6月の2回目の
みずのえ・みずのとの二日間。
竹富島では、
豊穣感謝のプイ(豊年祭)が執り行なわれます。


(ta)

豊年祭は、
八重山の各地域で行なわれる祭で、
地域によって、「プール」「プーリン」「プイ」などと
呼び方が異なります。

竹富島のプイは、
古くから執り行なわれてきた形を残しており、
初日のオンプイでは、
氏神と渡来元の神がまつられている6つの御嶽に
氏子たちが集い、
島の神々に
竹富島を取り巻く全ての恵みに感謝します。
それは、
ひとりひとりの健康や心の平和、
訪れる人たちの幸せ。
とても大らかな世界観といってもいいでしょう。

翌日のトゥヌイプイでは、
竹富公民館執行部と神司が、
竹富島の主だった御嶽を参詣します。
ユーニンガイ (豊穣祈願)の意味合いも含んだ
トゥヌイプイでは、年に僅か2回だけ入ることを
許される小底場(クックバー)に上ります。


7月15日 午後9時頃 〜 プイ前日 花城御嶽 〜

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プイの時にみんなで食べるムチャネ(ムチャニ)を作ります。
ムチャネは、もち米に粟や小豆などを炊いて練り、
円盤状に丸め、イトバショウの葉で包みます。

7月16日 午前11時頃 〜 オンプイ 東美崎御嶽 〜

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東美崎御嶽でのスナップ。
休日とあり、たくさんの子どもたちが訪れていました。

7月16日 午後3時頃 〜 オンプイ 花城御嶽 〜

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花城御嶽のウブ(聖域)。男性は入ることができません。

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竹富公民館執行部と有志の参詣。
祭主の竹富公民館執行部は、
オンプイの時のみ六山の御嶽に参詣します。

7月16日 午後7時過ぎ 〜 オンプイ 花城御嶽トゥヌイムトゥ 〜

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トゥヌイムトゥ(御嶽の統括者)のジージョン(土地の神)での御礼

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トゥヌイムトゥのザー(床の間)での御礼

7月17日(日) 午前7時45分 〜 トゥヌイプイ ニーラン  〜

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今日は大潮で満潮が近いとあり、
カントゥイ(神石)からかなり後ろで「豊年祭の道歌」を謡います。

今年のプイで、
玻座間御嶽の神司が引退され、
竹富島では神司の長である大司が不在となります。
さらに、
六山でもっとも古い花城御嶽の拝殿(1951年建立)
も改築の提案がなされています。

平成23年に執り行なわれた豊年祭は、
竹富島でのひとつの節目となります。

投稿者 takidun : 11:16 AM

July 07, 2011

西塘ばんはじり(西塘大祭)

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竹富島最大の偉人、
西塘大主の遺徳を偲び感謝する神事
西塘ばんはじり(西塘大祭)が昨日から執り行なわれています。
竹富島では数多くの祭が執り行なわれていますが、
西塘ばんはじりは、
始まりの由来が判る数少ない祭のひとつです。


(ta)

〜 西塘祭の始まり 〜

竹富島では西塘の子孫が絶えたので、
西塘をまつる方がなく、
部落で時々お祭を施行していた。
処が今より百十一年前、弘化三(1846)年
竹富島には農作物の豊穣がなく、珍しい害虫が発生して、
島の農作物は勿論、雑草に至るまで喰い尽し甚だしい事には
民家まで這入ってきた。
島民は何事かの不吉の前兆ではないかと懸念していた所へ、
大浜津良という老人が神懸かりして、高下駄をはき、
黒木の杖をついて夜明け頃各部落を廻り
親見世役人玻座間与人、部落の責任者大山親雲上、
両人よく聞け、この津良は西塘の使いであるぞ、
「両人は島民の苦しい生活を見ているか」
「島の枯れゆく姿を見ているか」
「害虫が発生している原因を知っているか」
「島の役人達、村の責任者達は、島の五穀豊穣、害虫駆除の
祈願祭を近日中に施行せよ」
神々のご照覧あって島民は救われるでしょう。

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7月6日夕刻 幸本御嶽

そこで、
玻座間与人と大山親雲上は早速、島民を集め協議の結果、
毎年6月西塘祭を挙行することに決し、
牛一頭を屠って盛大に行なう事になった。
其の後お神の御加護により、農作物が稔り、
民生活安定し幸福を招いている。

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7月7日早朝 清明御嶽

出典:『西塘傳』
   與那国善三、上勢頭亨共著 沖縄西塘会発行 1957年

投稿者 takidun : 10:01 AM

July 06, 2011

竹富島の大地

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ナーラサミチ沿い
久間原御嶽の鳥居前から望む
夕刻の竹富島の風景。
この地は現在、牧草地として活用されています。

周囲僅か9卍しかない竹富島ですが、
どことなく広大な土地を感じさせます。

終戦直後は2,000人以上が暮らしていた
この島の大地は、
今もなお、私たちに多くの恵みをもたらせています。

(ta)

投稿者 takidun : 09:18 AM

July 04, 2011

久間原御嶽

竹富島に数多く点在する御嶽(オン)。
沖縄本島では“ウタキ”や“オタケ”と呼びます。
現在、竹富島には28あるとされ、
竹富島の精神世界の中心に位置する神聖な場所です。


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今回は、竹富島の久間原村の創設の神で、
竹富島で執り行われる神事の中心となる六山(ムーヤマ)のひとつ、
久間原御嶽(クマーラオン)をご紹介します。

(ta)

久間原御嶽には、
久間原村の氏神である久間原発金殿(クマーラハチンガニ)と
渡来先の沖縄島から招かれた神がまつられています。

創建の由来は、
琉球王国が1713年に編纂した『琉球国由来記』に記されています。
久間原御嶽
神  名 東久間真神山
御いべ名 友利大あるじ
(をきなわかなしより御渡久間原はつおかみ初る)


六山の神々には数多くの伝承が遺されていますが、
久間原発金殿の伝承はごく僅かしか遺されていません。
しかし、
それが久間原発金殿の出自に何らかの意味があるのではないか
とも推測することができます。


− 六酋長の土地と海の配分の伝説 −

 昔、竹富島には六ヶ村の酋長がいた。
その酋長たちは、屋久島、久米島、徳之島、沖縄本島から竹富島へ渡来した。
島は小さい上に、土地は狭くして生活に不便であるため、
六人の酋長はそれぞれの領地について協議した。

花城村の酋長は、少しの土地を六つに分けることは無理と思い、
土地をもらうよりは広い海を多く分けてくれ、と真っ先に願い出て、
東方から南方にわたる卯辰巳午の四ヶ所をもらい、
大きな海の所有者になった。

玻座間村の酋長は耕作面を良い土地から多くと言って、
玻座間村を中心に、美崎付近を自分のものに分けてもらい、
その地で粟作につとめた。それで粟の主として尊敬されるようになった。
かわりに海としては島の子の方向にある
「ヒラソイ」「東ヌソイ」「西ヌソイ」という、三つの大岩を分けてもらった。

幸本村の酋長は、玻座間村と同様、良い土地を多く取ることを望んだ。
「フウジャヌクミ」を中心として西方へ耕地を分けてもらい、
大豆、小豆、赤豆、下大豆等の豆類の研究を重ねたので、
豆の主として尊敬された。そして、海は西の方向の一部をもらって生活した。

仲筋村の酋長は、竹富島の中央を選び、
アラ道からンブフル、仲筋フウヤシキまでの耕地をもらいうけ、
麦作の研究をしたので、麦の主として尊敬された。
海は戌亥の方向を二部自分の海としてもらいうけた。

波利若村の酋長は、やさしい欲のない方で、
五名の選び残りでよいとのことから、
美崎原にある新里村の土地の一角をもらい、
海は寅の方向の一部をうけてバイヤピーと名づけた。
そして自分は、六名の内一番後輩である、
先輩たちの諸作物に一番大切な天の恵みである雨を祈り、
島の豊作を祈念するということから雨の主になった。

久間原村の酋長は、良い土地より悪い石原を多く持ち、
その土地に植林をして人民の幸福をはかることが望みだった。
そのため石の多い野原を取り、
ヒシャール山、ヘーマジッタイ、クムクシマフ、カイジを所有地にし、
石原に木を植え、竹富島の山林の主となって、
人民から山の神として尊敬された。
また海の方は、未申にある「ヒサラピーナノウーピー」を自分のものとした。

六人の酋長は、自分の担当した職を神司に告げたので、
竹富島の六人の神司はその由来から土地や海を祝詞に唱え、
麦、粟、豆、山、海、雨、
この六つに分かれた主の神として六つの御嶽を創立したと言うことである。

出典 『竹富島誌 ―民話・民俗編― 』上勢頭亨著 法政大学出版局発行

※ 御嶽は神聖な場所です。
   鳥居から中へのお立ち入りはご遠慮ください。

投稿者 takidun : 08:33 AM

July 03, 2011

パパイヤ

ゆがふ館の裏庭に自生する
パパイヤの幹もたわわに実がなりました。

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収穫まであと僅かです。

(ta)

投稿者 takidun : 02:45 PM