September 23, 2009

竹富島のアイデンティティー

〜いつの世も、末ながく〜のフレーズで、
いまやすっかり沖縄を代表するデザインとして
認知されるようになった八重山ミンサーのデザイン。
今ではお土産屋さんではもちろんのこと、
公共施設や道路などでも目にすることができます。

いつの世までも末永く、
わたしひとすじに、
足しげく通ってください・・・。

という女性の願いが込められている
この八重山ミンサーのデザインは、竹富島が発祥です。

minsa0923.jpg
ミンサーはゆがふ館でもご覧いただくことができます。

(ta)

ミンサーとは“ミン”(綿)“サー”(狭)という意味で
綿狭帯と解釈されており、
古くはアフガニスタンに源流を持つ
小さな絣(かすり)の帯が中国へ伝来したといわれています。
木綿の伝播と共に16世紀から始まったと伝えられる技術は、
庶民が使用する普段帯として、
沖縄本島はじめ各地域で織られていました。

竹富島では昔、通い婚の風習がありました。
婚約の際に女性が愛の証として男性に贈った帯で、
五つ玉(イチチダマ)と四つ玉(ユーチダマ)の白絣には
「イチヌユーマデ」(いつの世までも)という想いがこめられています。
縁の白と藍の交互に現われるムカデの足模様は、
テードゥンムニ(竹富言葉)で「マーザヌパン」。
“足しげく通って下さい”との意味が込められています。
絣の両脇のひと筋の白い線は「タテスジ」。
こちらはお互いの真心を意味するそうです。
帯のデザインから垣間見える女性たちのメッセージは、
「外に誘惑されることなく、心をひと筋に、清らかな気持ちで足しげく通ってね。」
と伝えています。

時を経て、
太平洋戦争終了後に様々な文化が竹富島に流れて来ます。
アメリカ文化の流入は、
手間ひまをかけて作り上げる織物を徐々に消し去ろうとします。
昭和30年代の竹富島では、
機織の音も途絶えつつあり、
伝統文化の灯も消えつつありました。
こうしたなか、
1957(昭和32)年に民芸運動家で倉敷民藝館長であった
外村吉之介は竹富島を訪れ、
竹富島の織物の素朴さ、美しさに驚嘆します。

外村吉之介は、
素晴らしい竹富島の伝統工芸品を生かし
継承するために販路を開拓し、
柳宗悦やバーナード・リーチなどの民藝運動家に竹富島を紹介し、
竹富島の民芸品の保護に努めます。

外村先生のご尽力や島の先達者の努力によって、
竹富島の機織は復活します。

そして、
復活した織物は土産物として石垣島の店頭にならぶこととなり、
一般の方々に広く認知されていくのです。

1989(平成元)年、
ミンサーが国の伝統的工芸品に指定されるにあたって、 
島の古老からは、「何故竹富ミンサーにしないのか・・・」
という声もあったそうですが、
指定されるにはある程度の規模の製造者があり、
地域産業として成立していることが必要。とあります。
竹富島だけの産業では規模が小さく、
そして伝統文化の継承という点を踏まえると、
石垣島を含め八重山全域で製造していくことが継承にもつながります。

こうした経緯で現在では、「八重山ミンサー」と呼称されています。

『安里屋ゆんた』に代表される歌謡・芸能、
そしてミンサー織に代表される織物・工芸品。
ここに、本来の竹富島が滲み出ています。

投稿者 takidun : September 23, 2009 12:46 PM